地方の小さな駅に足を運ぶと、どこか時間が止まったような感覚に包まれる。
駅に人影はなく、静かな風景が広がる。
改札には「ピッ」とするICカードの端末さえなく、今では珍しい光景だ。
その駅には、ひときわ目を引くガラスケースがあった。
中に飾られていたのは、立派な鶴の剥製。
今は見かけることも少ないが、昔、この地域には鶴が飛来していたのだという。
剥製はその名残を伝えている。
しかし、ふと頭をよぎるのは、現代では鶴の剥製など作ることが許されないだろう、ということ。
ワシントン条約――絶滅危惧種を守るために国際的な規制が敷かれている今、こうした剥製は時代の遺物となりつつある。
かつては、自然の一部であった野生動物が剥製という形で保存され、博物館や個人宅でも見ることができた。
しかし今、そのような行為は保護の観点から厳しく制限されている。
確かに、それは自然と人間との関わり方を考えさせられる。
剥製の中にあるのはかつての鶴の姿だが、現代の我々はそれを一つの警鐘として受け止めるべきなのだろう。
あの鶴の剥製を見たとき、ただの展示物ではなく、消えゆく自然への敬意や後悔のようなものを感じた。
飛び立つことを許されず、永遠にその場に留まる鶴。
それが語りかけてくるものは、我々がいかにして自然と向き合い、守っていくべきかという問いかもしれない。